きりしま食の道10カ条ブログ

-4-食を通して表現する霧島の過去・現在・未来

この地に生きる人の声に耳を傾ける
「もう一つの道」

遠くにあるもの、多くの人間が集まる場所が輝き、そこで競い勝つこと、人より優れていることで「幸せ」と感じる人の心理。

霧島でも、もっと効率よく、もっと便利にと都市化をめざし、この地に生きる人たちが連綿と紡いできた「在来の文化」は軽んじられ、特にその地域独自の生活文化・食文化は失われつつある。この地に生まれた子どもも都市社会の一員となるべく、経済発展をめざす道への教育を受けてきた。

しかし、時代は行き詰まり、都会も農村も家庭や個人も孤立し、その地で生きる喜びを感じにくくなった。失ったものは取り戻すことはできないが、もう一度自分の足元にあるものを見つめなおすことはできないか。改めて丁寧に見つめることで、「もう一つの道」を探していきたい。

このブログでは生きる源である食を中心に置き、「きりしま食の道10カ条」のテーマごとに、霧島に生きる人々の声に耳を傾け、その学びの中から、今を生きる私たちの拠りどころを見つけていきたい。


今回は、「きりしま食の道10カ条」の第4条である「霧島が育む食材を学び、使い、みんなで楽しく食べよう」をテーマに考える。
【目次】
・インタビュー 「食を通して表現する霧島の過去・現在・未来」 峯下清孝さん
・霧島の食と器 「ポテトサラダ」をFUQUGI の器に盛る


きりしま食の道 第4条
−霧島が育む食材を学び、使い、みんなで楽しく食べよう−

「食を通して表現する霧島の過去・現在・未来」
        峯下清孝さん(霧島)

取材・文・料理 千葉しのぶ

「霧島・食の文化祭」の会場で


毎年、晩秋に開催される「霧島・食の文化祭」。NPO法人霧島食育研究会が主催し、霧島保健福祉センターを会場に行われている。霧島が育む食材、食文化、美味しさをさまざまな展示やワークショップで学ぶイベントだ。

開会は10時だが、8時過ぎから会場に集まる人々がいる。「霧島・食の文化祭」のメインの取り組みである「家庭料理大集合」に出品するために手料理を持ち寄る人々だ。
吐く息が白くなるほど寒い中、手には風呂敷に包まれた手料理。大事そうに持ち込まれた料理は約150品。受付を済ませた料理は、専用の撮影セットの中に運び込まれる。ライトを浴びながら自分の料理が撮影される様子を、人々はすこし眩しそうに眺めている。

家庭料理大集合の料理撮影をする峯下さん

2300皿の霧島の家庭料理

流れるように進む撮影を指揮するのは、NPO法人霧島食育研究会理事の峯下清孝さん。霧島市を中心に各地より持ち寄られた家庭料理の写真を撮り続ける。その数は17年で何と2304皿。おそらく、毎年同じ時期、同じ地域の膨大な数の家庭料理を17年にわたり撮り続けた人は、日本中、いや世界中でこの人だけではないだろうか。
峯下さんが、霧島の家庭料理を撮影し続けたカメラのレンズを通し感じてきたものは何だったのか。峯下さんの幼い頃からの軌跡と共に追うこととした。

90分で150皿の料理を撮影し続ける

表現する魅力の芽生え

峯下さんは昭和43年生まれの52歳(令和3年9月現在)、伊佐市大口で生まれた。3人きょうだいの一番上、二歳ずつ違う妹二人がいる。
小さいころから絵をかくのが好きでアニメにも夢中になった。一方、外遊びも好きで、真冬に雪が積もると友達とかまくらを作ったり、そり遊びをしたりと、鹿児島の中の北海道といわれる大口の自然の中でたくましく育った。

高校に入ると美術部で油絵にも挑戦。鹿児島市内に映画を見に行くもの大好きだった。「絵や映像の表現力に大きな魅力を感じていました。」と峯下さんは懐かしむ。そして、高校卒業後は就職しようと決め、郵政省の試験を受けて見事合格した。初任地は霧島郵便局。知り合いのいない中で初めての一人暮らしが始まった。

霧島の暮らしの中から表現する

そして入局間もないころ、職場の先輩に誘われてある懇親会に参加した。「行って初めて分かったんですが、そこは霧島町青年団の集まりでした。年上の男女がたくさんいてちょっとびっくりしたのですが、あれよあれよという間に青年団員になりました」と峯下さんは笑う。

当時、霧島町青年団は県下でもトップリーダー的存在。霧島町夏まつりや毎月の青年団新聞「たかちほ」の発行など、先頭に立ってまちづくりに力を尽くす団体だった。その中で、峯下さんは演劇や新聞の編集発行などで中心的役割を担うようになった。「霧島で暮らす若者のリアルな思いや行動」をテーマにした、それらの表現活動は、全国青年大会意見発表の部で最優秀賞を獲得するほどの高い評価を得た。

「いちばん嬉しかったのは、知り合いのいなかった霧島で、多くの人が、いつもがんばっているね、と励ましてくれたこと」と峯下さんは当時を振り返る。そして結婚するまでの約10年間の青年団活動は続いていくのだった。

家庭料理撮影への挑戦

転機になったのは、青年団を退団し数年たった平成16年の夏のある日のことだった。青年団の先輩から一本の電話があった。「理事をしている霧島食育研究会がイベントをすることになったので撮影の手伝いをしてほしい」。信頼する先輩の依頼に、「断る選択肢はなかった」と峯下さんは苦笑い。

主催者(取材者 千葉)に会うのも初めて、何をすればいいのだろうかと話を聞くと、「150品の家庭料理を90分で撮影してもらえないだろうか」と言う。正直面食らった。今とは違い、当時は家庭料理を撮影することは珍しいことだった。

しかし、「霧島の普段の食の中に学ぶべきことがある」「この料理を作った人の思いも記録する」という「霧島・食の文化祭」のコンセプトに接するうちに、これまで自分が取り組んできた「霧島の暮らしや思いの記録と表現」に通じるところがあるのでないかと、感じるようになったという。
撮影を引き受けてからは、機材をそろえ、料理撮影のライティングなど独学で準備を進めた。前日までに受付から撮影、展示までの流れをスタッフと共にリハーサルを重ねた。

カメラを通して見えてきたもの

そして平成16年11月13日、第一回「霧島・食の文化祭」を迎えるのだった。料理の受付開始時間前から、料理を持ち込む人の列ができ始めるが、事前の流れの通り撮影していく。その間、周囲からは「家で作っている野菜です」「お裾分けの芋を使ったよ」などの声がにぎやかに聞こえてくる。その時、自分の想像を超えた「あること」に驚いたという。

それは霧島で育まれた食材の「鮮やかな色」だった。紫芋羊羹の明るく深い青紫色、カボチャ料理の穏やかな赤みがかった黄色、黒豆のつやつやとした黒紫色、レンズを通して見えた、霧島の普段着の食は、実は素材に手を加えすぎない、素材そのものを美しく仕上げる技が詰まっているのではないかと感じたそう。

鮮やかな素材の色が美しい霧島の家庭料理の数々

そして、料理撮影を済ませ、会場内でスタッフとして手伝ってくれる高齢者を撮影しているときにも相通じるものを感じた。80代の高齢女性は、ちゃぶ台カフェと名付けられたブースで、来場者へ手製の漬物やお茶をふるまっている。服や化粧で着飾っているわけでもないが、その人の優しく穏やかな表情の中に、凛としたたたずまいがあった。そこに霧島で生きてきた人の素直な思いやり、たくましさ、おおらかさ、気高さを感じたという。

食べものの美しさも、食べてしまえばあっという間に消えてしまうし、人の表情も気にかけなければ何も気づかずに通り過ぎる。しかし、その潔いまでの一瞬の輝きを写真という画像で残す大切さを実感した、そんな1年目の「霧島・食の文化祭」だった。

霧島に生きてきた人のやさしさ、思いやり、おおらかさは凛としたたたずまいに

「干し柿のおはぎ」と「高菜のおにぎり」との出会い

そして、翌年の第2回「霧島・食の文化祭」では、忘れられない二つの料理に出会った。

一つは、ある高齢男性の思い出の料理。男性が属した軍隊の上司が特攻兵として出撃する前夜、上司の若い妻が持参した弁当だ。それは、小豆のおはぎの代わりに干し柿をつぶして餡代わりにした「干し柿のおはぎ」だった。夫が出撃する連絡を受け、駆け付けた妻は、砂糖を準備することができなく、苦肉の策で、少しでも甘いものをと、干し柿をご飯の周りにまぶして持参した。それを当時わずか14歳の少年兵だった男性は、兄とも慕う上司とその妻と共に最後の食卓を囲んだ。戦後70年を経ても、男性の心の中からそのおはぎが消えることはなかったという。

特攻攻撃出立の前夜の食「干し柿のおはぎ」

そして、もう一つは「高菜のおにぎり」。霧島に住む当時40代のやすこさんという女性が「母ちゃんの声」と料理名をつけ持参したものだった。幼い頃、母が「おやつ」として作ってくれたのが高菜の漬物をまいたおにぎりだった。畑仕事に行くときの母の言葉、「やすこー。母ちゃんは畑に行ってくるからね、おやつは高菜のおにぎりがあっでねー」。その母の声が、母亡きあとも忘れられないとやすこさんは話した。

「母ちゃんの声」と題された「高菜のおにぎり」

食の記憶が支えるもの

その後、現在まで毎年、17回の「霧島・食の文化祭」が開催されている。その間、撮影を続け出会った料理は2304皿。思い返せば、母を早くに亡くした女性の「母に教わったたくわんのちらし寿司」、祖母の料理が好きという50代女性の「おはぎ」、亡くなった両親が作ってくれた弁当を再現した70代女性、高校生が作った「両親に食べさせたいお弁当」など、その人の心の中に大切に包まれ、その人をいつも暖め支えてきた料理の数々だった。

この17年間の食の記録を通し、峯下さんが見てきたものは、「何とかして、おいしいものを食べさせようとする、作り手の心意気、知恵」であり、「それを食べた記憶が人の心の中に深く温かくしみ込み、その人の一生を支えてくれる」、ひとりひとりの「食べもののドラマ」だった。

これまで出品された全ての料理をパネルにしている「写真で家庭料理大集合」

現在、峯下さんは郵便局を早期退職し「プライベートカメラマン霧島日和」という個人事務所を創業。出張カメラマンとして様々なシチュエーションに対応し、依頼者に寄り添った撮影を提供している。

さらに、これまで培った食材や料理の撮影技術、生産者との出会いから霧島の食材の豊かさ、食に対する真摯な取り組みをフリーペーパーで紹介する取り組み「よかよか霧島」も始動。今後ポータルサイトに発展できればとも語った。

霧島市内外で、家族写真・記念写真・料理写真などの出張撮影を行っている

峯下さんの道

霧島の家庭料理を撮影し続け、「食のドラマ」を見続けてきた峯下さんは、これからも、一皿に込められた、あたたかく、時には切ない思いを、その料理の色、輝きと共に記録し続け、次の世代に伝えていくだろう。峯下さんの道は、食の記録を通して、時代を超えた土地の魅力とそこに暮らす人の人生に寄り添う道だと思う。


きりしまの食と器

「ポテトサラダ」をFUQUGI の器に盛る

峯下さん自身の思い出の食を聞いてみた。峯下さんは、少し間をおいて「母の作ったポテトサラダかな」と静かに語った。お母さんは10年前に66歳で亡くなった。

峯下さんが就職で家を離れる前日「ご飯が炊けるように」と炊飯器でご飯を炊く練習をさせたそう。そんなお母さんのポテトサラダはたっぷりのジャガイモに、キュウリと茹で卵と魚肉ソーセージが入っていた。

器は、霧島市牧園の森の中にある木工房FUQUGI (フクギ)で作られた「LOOP」。吉野杉を使用し、丸みを帯びぽってりとしたフォルムが特徴的なプレートである。手で触れるとほんのりあたたかく、自然の木目に森を感じる。

材料(4人分)

  • ジャガイモ 中3個(300ℊ)
  • キュウリ 中1本(100g )
  • ニンジン 中1/2(70ℊ)
  • 茹で卵  2個
  • 魚肉ソーセージ 1本
  • マヨネーズ 50ℊ
  • 塩・こしょう 適宜

 

作り方

  1. ジャガイモは皮付きのまま茹でる
  2. きゅうり薄切りし塩少々でもみ、しんなりしたら洗い絞って水けをとる。ニンジンはいちょう切りにし茹でておく。魚肉ソーセージと茹で卵は好みの大きさに切る。
  3. ジャガイモが竹串がスッと通る程度になったらザルにあけ、皮をむき熱いうちにマッシャーでつぶす。塩・こしょう・マヨネーズを加え、②を混ぜる。

 


FUQUGI
〒899-6505 鹿児島県霧島市牧園町持松2108-128
電話: 080-1787-2793


取材・文・料理
千葉しのぶ 
NPO法人霧島食育研究会理事長、「植え方から食べ方まで」を実践する霧島里山自然学校、郷土料理伝承教室、「霧島・食の文化祭」を開催。鹿児島女子短期大学准教授を経て令和2年「千葉しのぶ鹿児島食文化スタジオ」を設立。管理栄養士・フードコーディネーター

撮影
吉国明彦・吉国あかね(エンガワスタジオ)

※「霧島・食の文化祭」に関する写真はNPO法人霧島食育研究会より
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