きりしま食の道10カ条ブログ

-3- ゲタンハに託すふるさとの軌跡

この地に生きる人の声に耳を傾ける
「もう一つの道」

遠くにあるもの、多くの人間が集まる場所が輝き、そこで競い勝つこと、人より優れていることで「幸せ」と感じる人の心理。

霧島でも、もっと効率よく、もっと便利にと都市化をめざし、この地に生きる人たちが連綿と紡いできた「在来の文化」は軽んじられ、特にその地域独自の生活文化・食文化は失われつつある。この地に生まれた子どもも都市社会の一員となるべく、経済発展をめざす道への教育を受けてきた。

しかし、時代は行き詰まり、都会も農村も家庭や個人も孤立し、その地で生きる喜びを感じにくくなった。失ったものは取り戻すことはできないが、もう一度自分の足元にあるものを見つめなおすことはできないか。改めて丁寧に見つめることで、「もう一つの道」を探していきたい。

このブログでは生きる源である食を中心に置き、「きりしま食の道10カ条」のテーマごとに、霧島に生きる人々の声に耳を傾け、その学びの中から、今を生きる私たちの拠りどころを見つけていきたい。


今回は、「きりしま食の道10カ条」の第3条である「先人たちが連綿と築いてきた食の知恵、技、想いを未来に残そう」をテーマに考える。
【目次】
・インタビュー 「ゲタンハに託すふるさとの軌跡」 福島年子さん
・霧島の食と器 「ゲタンハ」を岩切美巧堂の錫の皿に盛る


きりしま食の道 第3条
−先人たちが連綿と築いてきた食の知恵、技、想いを未来に残そう−

「ゲタンハに託すふるさとの軌跡」
     福島年子さん(横川町)

取材・文  千葉しのぶ

霧島には、鹿児島を代表する菓子がある。
黒糖をふんだんに使い、この上なく贅沢な菓子なのに名前はなんとも素朴、「ゲタンハ」。
下駄の歯を泥で汚した様子になぞられ名付けられたこの菓子の歴史から見える、霧島の先人が築いてきた食の知恵と技、それを引き継ぐ人の思いとは–

「駅」と「金山」につながる「ゲタンハ」

「ゲタンハ」はどのようにして作られ始めたのだろうか。

それは横川の「駅」と「金山」の歴史につながっている。
肥薩線、大隅横川駅。117年を経て開業当時の駅舎には今も、機銃掃射の弾跡がのこり、戦場であった忘れてはならぬこの地の歴史を刻み続けている。今は無人のこの駅舎も、かつては多くの人々の夢や願いを迎え送り出してきたことだろう。
昭和20年代まで近くには姶良伊佐地区の米の集荷場があり、多くの人でにぎわったという。

そして、ここより車で30分、山ケ野の谷間にひっそりとたたずむ山ケ野金山跡。300年の歴史をもち、昭和28年に幕を閉じるまで、全国7位の採掘量を誇る国内屈指の金山であった。この小さな谷間は最盛期には全国各地より集まった2万もの人々で、大都会の活気を彷彿とさせる様相であったと思われる。

ゲタンハという名前の裏側

そして、米の集荷場や金山で働く人々の甘さへの欲求を満たしたのが「ゲタンハ」だった。

「ゲタンハ」という、どこかのんびりした、いかにも薩摩らしい菓子の名前の裏側には、「米」という生きるための最大の糧、そして「金」という欲望の象徴が見え隠れしている。それは、生身の人間の「生」への強い思いが生み出した菓子であることを、時間を経て私たちに教えてくれるものではないか。

そんなゲタンハに深くかかわる人に会いに横川を訪ねた。
17年前から霧島市横川町で「ゲタンハ」の伝承活動を続ける福島年子さんだ。

福島年子さんと夫の龍猪さん

 120年の時を経た台所で

福島さんの自宅は横川町中ノ。約500坪の自宅敷地内には築120年以上の母屋と瀟洒しょうしゃで現代的な離れがあり、百日紅さるすべり、みかん、けせんなどの樹木が育てられ、アスター、花トラノオ、ミソハギ、フロックス、セージなどの草々が咲き誇っている。

「古いものを大切に使うのが好き」という福島さんの言葉通り、母屋の台所には、大人数が食卓を囲むことができる食台に、鉄釜、竹のザル、漆の椀が今もしっかりと使い込まれ、使い出のある道具として存在感を放っている。

自然に包まれた子ども時代

福島さんは、昭和28年生まれの67歳。9人兄姉の末っ子。幼いころより牧園町下中津川に暮らし、幼い頃は山や川で遊ぶのが大好き。
「雨が降った翌日は天降川に行き、竹で作ったワナを仕掛けるんですが、小魚が捕れるとその場でワタを取り、家のいろりで2.3日火ぼかします。甘辛く佃煮風に煮たり、煮しめにいれたりするのが楽しみでしたね。学校帰りに山に行き、グミをとってはカラの弁当箱に入れてよく持ち帰ったものです。栗やむかご、自然薯はおやつで、ごちそうでもありましたね。つばなもよく口にしましたよ」と福島さん。
地元の高校を卒業後、役場に就職。保育士資格を得て町立の保育園でも働いた。結婚後、夫の地元横川町に暮らし4人の子どもを産み育てた。

ゲタンハとの出会い

そんな福島さんと「ゲタンハ」との出会いは、2004年にさかのぼる。当時、横川町で食生活改善推進員として活動していた福島さんは「ゲタンハは横川発祥であり、米の集荷場があった横川駅前の数軒の菓子店で作られていた」ことを知った。仲間と共に調べていくうちに、「むかし食べたことがある」というお年寄りがいること、「横川菓子」とも、また正三角形の形から「三角菓子」とも呼ばれていたことが分かった。特に山ケ野金山で働く人々の口に入った食べ物であることに興味をもった。

「有名な金山であることは聞いていましたが、今も山ヶ野集落には坑跡だけでなく、居住跡や屋敷石垣、水路石垣等が残っています。また残されている資料を見ると所狭しと米屋、酒屋、旅館、芝居小屋など様々な商売が営まれていたことを知ることができました。そこに生きた人びとの暮らしを想像しつつ、その人たちがどんな思いでゲタンハを食べたであろうかという思いが増していきました」


山ヶ野金山跡

ゲタンハ再現の道のり

しかし、「ゲタンハ」は昭和初期には途絶えており、どのように再現するかは手がかりの無い状態だった。県内の菓子業者が「ゲタンハ」という商品名の菓子を販売しているが、お年寄りに聞くと「もっと固かった」という。

材料は「小麦粉」「黒糖」「膨張剤」「水」だけだが、その割合、特に膨張剤として使う「重曹」の加減が難しい。オーブンを使った焼き加減も試行錯誤するが、うまくいかなかった。そんな時、以前、大隅横川駅前にあった菓子屋の親戚だという高齢の女性が現れた。幼い頃、菓子店で「げたんは」を作っていたところを見ており、その作り方を教わったという。仲間と喜びあい、早速教えを請うた。

ゲタンハが語りかけるもの

出来上がった「ゲタンハ」は、小麦粉と黒糖、重曹を練り込んだ生地が芳ばしく焼き上げられ、黒糖たっぷりの蜜をくぐらせたものだった。作りたては硬いが2.3日たつと蜜が染み込み、何とも言えぬしっとりとした食感になる。
「砂糖が貴重な時代にこんなに多くに黒糖を使うなんて信じられないほどですが、それだけこの地は、当時多くの財力と物、人が集まった特殊な地域だったのでしょう」「特に金山で働く人たちにとって命を懸けて働く中でつかの間の安らぎを与えてくれるものだったのでは」と福島さん。

ふるさとの軌跡を未来へ

「ゲタンハ」完成後は、大隅横川駅で開催される町おこしのイベントや、観光列車「はやとの風」の停車中のお土産として人気を博した。反響も大きく、県外客にも好評だったが、一番うれしかったのは、横川の住民に喜ばれたことだという。「横川の歴史をゲタンハを通し実感できた」「誇れる食文化が故郷のあったのだと気づかされた」という声に背中を押され、若い後継者に作り方を伝授するとともに、自身も、現在まで地域の小学校や各地の料理教室で「ゲタンハ」の歴史と作り方を伝え続けている。

福島さんの道

先祖から受け継いだ家を守りつつ、その暮らしを楽しみ、新しい魅力を作り続ける福島さんが大切にしているのは「自分が大事にしたいことに囲まれて生きる」ことだと思う。
昔ながらの設えや道具を日々手入れし、使いこなし、ひとつひとつの持つ役割を活かす工夫を重ねると共に、自分が引き継いだ技や思いを丁寧に磨き上げ伝え継いでいる。

福島さんが選んだ道は「託された技や思いを未来に伝える道」だと思う。

福島さんと筆者(千葉)


霧島の食と器

「ゲタンハ」を岩切美巧堂の錫の皿に盛る

黒糖と小麦粉の生地は本来の「横川菓子」として正三角形に切られ、しっかりと黒蜜を吸いこんでいる。

今回の器は岩切美巧堂で作られた錫の銘々皿。岩切美巧堂は、1916(大正5)年の創業以来100年以上の歴史を持つ。錫は金属の中で、比較的やわらかいという特性があるため、割れないという特長を持っている。丸みを帯びた感触や独特のあたたかみを帯びた光沢、手にしっくりと収まる重量感が鹿児島の素朴な焼き菓子をより引き立たせる。岩切美巧堂の錫器は鹿児島県指定の伝統工芸品ともなっている。

材料(作りやすい分量)

生地
小麦粉(薄力粉)250g
重曹      小さじ1
黒糖粉     100g
水       100㏄

みつ
黒糖 150g
水  大さじ5(75㏄)

作り方

  1. 小麦粉と重曹を合わせてふるう。
  2. 生地の黒糖と水を合わせ溶かす。
  3. ①に②を加え粉っぽさがなくなるまで混ぜる。
  4. 天板にクッキングシートを敷き、③を広げる。
  5. 180℃のオーブンで20分焼く。
  6. みつの材料を煮溶かす。
  7. ⑤の粗熱がとれたら三角形に切り、⑥にくぐらせる。

岩切美巧堂
〒899-4332
鹿児島県霧島市国分中央4-18-2
電話 0995-45-0177

ゲタンハ調理
福島年子

取材・文
千葉しのぶ 
NPO法人霧島食育研究会理事長、「植え方から食べ方まで」を実践する霧島里山自然学校、郷土料理伝承教室、「霧島・食の文化祭」を開催。鹿児島女子短期大学准教授を経て令和2年「千葉しのぶ鹿児島食文化スタジオ」を設立。管理栄養士

撮影
吉国明彦・吉国あかね(エンガワスタジオ)

※山ヶ野金山跡の写真:霧島市提供
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