-1- 霧島山と共に生きる
この地に生きる人の声に耳を傾ける
「もう一つの道」
遠くにあるもの、多くの人間が集まる場所が輝き、そこで競い勝つこと、人より優れていることで「幸せ」と感じる人の心理。
霧島でも、もっと効率よく、もっと便利にと都市化をめざし、この地に生きる人たちが連綿と紡いできた「在来の文化」は軽んじられ、特にその地域独自の生活文化・食文化は失われつつある。この地に生まれた子どもも都市社会の一員となるべく、経済発展をめざす道への教育を受けてきた。
しかし、時代は行き詰まり、都会も農村も家庭や個人も孤立し、その地で生きる喜びを感じにくくなった。失ったものは取り戻すことはできないが、もう一度自分の足元にあるものを見つめなおすことはできないか。改めて丁寧に見つめることで、「もう一つの道」を探していきたい。
このブログでは生きる源である食を中心に置き、「きりしま食の道10カ条」のテーマごとに、霧島に生きる人々の声に耳を傾け、その学びの中から、今を生きる私たちの拠りどころを見つけていきたい。
今回は、「きりしま食の道10カ条」の第1条である「暮らしの源である霧島山に深い敬意を込め、自然の恵みを共有しよう」をテーマに考える。
【目次】
・インタビュー 「霧島山と共に生きる」 後藤辰美さん
・霧島の食と器 「干し魚と野菜の煮しめ」を紅葉窯の大皿に盛る
きりしま食の道 第1条
−暮らしの源である霧島山に深い敬意をこめ 自然の恵みを共有しよう−
「霧島山と共に生きる」
後藤辰美さん(霧島)
取材・文・料理 千葉しのぶ
霧島には、自然に寄り添い、穏やかに暮らす人々の姿がある。与えられた自然の中で工夫を凝らし、この地をより良くし生きやすい場所に整えようとする生き方がある。
霧島山麓、標高370メートルの全戸18個の集落「市後柄」に暮らす後藤辰美さんを訪ねた。
この地の恵みを知り尽くす人
後藤さんは昭和23年生まれの72歳。奥さんのキヨ子さんと二人暮らし。自宅周囲の畑にはブルーベリーがたわわに実り、5枚ある後藤さん所有の田んぼには人の膝丈ほど伸びた稲が強く太く根をはり、緩やかに流れる風に葉をゆったりと揺らしていた。水路を流れる水音が常に響くのが心地よかった。
後藤さんは、この地で生まれ、高校卒業後、東京の私鉄会社に7年勤務し、霧島町役場職員に転職した。社会教育課・観光課など多くの部署で勤め、平成20年3月市民福祉課長として退職を迎えた。その後市内の建設会社で部長として後進の指導に当たっている。
きりしま食の道10カ条の第1条は「暮らしの源である霧島山に敬意を込め 自然の恵みを共有しよう」。真っ先に後藤さんの顔が浮かんだ。後藤さんは、霧島山麓で生まれ、耕し、学び、霧島山に寄り添う暮らしの中で、この土地の豊かさを心の底から実感し、その魅力を多くの人々にも伝えてきた。
小さな一家の大黒柱
子どものころの暮らしを後藤さんに聞いた。
「おやじは農繁期以外、名神高速道路などの建設現場に出稼ぎ。その間の田んぼの水の管理はおやじに代わる長男としての自分の仕事でした。家で作った野菜の行商に母と牧園の丸尾に行くこともありましたね。野菜は一束ずつ棕櫚の葉でむすび、背負いかごに入れて、夜が明けぬ3時か4時に家を出るんです。冬は霜柱が高く立つのですが、その中をもくもくと歩いたものです。子どもながらに一家の大黒柱だと感じていましたね。」
やまのもんはごちそう
「子ども同士、みんなで山に入っては、たくさんの食べ物もいただきました。『やまのもん』『おえもん』とか言っていましたね。春にワラビをとってくると、母は、風呂を炊くのに使った薪の灰から灰汁を作って、それに浸してアクを抜いて、タケノコなどと煮しめにしました。秋になると一番のごちそうは自然薯ですね。夏のころから木に巻き付いているツルを探してそこに小枝をさして目印をつけておきます。秋になると長い棒をつけた専用のクワで注意深く掘って、途中で折れないで長いものが出てくると嬉しかったです。とろろ芋が大好物だった祖父に早く食べさせたいと思ったものでした。
近くの川にもよく行きました。針金を細工して釣り針にして、手のひらくらいの小魚を釣っていました。家でおなかを開いて、みそを詰めて柿の葉でくるみ、いろりの灰の中に入れるんですね。ちょうどいい加減に蒸し焼きになって香ばしく、家族みんなでほおばったものです。」
生死を分けた不思議な体験
生活は常に霧島山と共にあり、就職し東京で暮らすときも、おのずと興味は山に向かった。夜行で北アルプス・中央アルプスに行き登山する日々が続いた。
帰郷し、役場では社会教育課を長く担当。子ども会や高校生リーダーの育成の中で、キャンプなどの自然活動では子どもたちに霧島で暮らす楽しさを伝えた。自分の子ども時代、山の中で仲間と共に遊び学んだ知恵を伝えた。
そして12年前霧島山で起こったある体験が忘れられないと後藤さん。
「他県から来訪し高千穂峰に登山中、行方不明になった高校生の捜索をしていた時のことです。これまでの登山経験で得たすべてのルートを頭の中に入れ、高校生が霧で行く手を遮られた中どこで迷いどこにいるかを考え捜索し、名前を呼び続けたんです。そうしたら、かすかに呼びかけに答える声が聞こえました。直径2、3メートルも在ろうかという巨石の影にいた高校生を発見し、その場から離した瞬間、巨石が山の斜面を転がり落ちました。生死を分けたかもしれないその出来事は、いまでも不思議な出来事として残っています。その時の高校生やその家族とは今でも交流があり、しっかりと社会人として活躍する姿が誇らしいですよ。」
なぜ「田んぼ」と「水路」を守るのか
さらに後藤さんに、今、大切にしていることを聞いた。
「市後柄に、子どもの姿は少ないのですが、集落全体が家族以上のものだと感じています。それを繋いでいるものの一つが「田んぼ」。自分の田んぼも人の田んぼも同じように大切。今でも近所の仲間に水の管理でアドバイスをもらうこともありますよ。何より「田んぼの水」を大切にしています。
ここの田んぼは、明治の初めから大正時代にかけて祖先たちが大きな苦労をして作った、標高500メートルの横岳の用水路の水を使っているのです。そのころ『霧島川の水が横岳にのぼり、横岳が田んぼになったら、お月さまは西から出て東に沈む』って言われていたそうなんです。当時は測量機械もなく、自分たちで工夫した水準器だけを頼みに工事をしていたようです。水の流れる日の喜びを思いながらの難工事だったと思います。おかげで、私たちはここで米を作れるのです。田んぼは水路が命、定期的に水路を整え、きれいな水で米を作ることをみんなで守ってきました。絶対に田んぼを絶やしたくないですね。田んぼや水路で地域の子どもから年寄りまでみんなで楽しめる仕組みも作りたいです」
ごちそうは鶏と干し魚
最後に後藤さんに「心に残る料理」を聞いてみた。
「正月前になると、祖父母や両親が鶏をさばくのです。とりさしや煮物にもしましたし、内臓もきれいに洗って、焼いて食べるのがごちそうでした。クジラのオバ、バケツ一杯の数の子も正月ならではのものでした。
ぶえん(生の魚)は食べたことが無くて、干した魚がごちそうでした。田植えが終わったお祝いの「さのぼり」では、母が干し魚・イモや野菜と煮しめたものを作るんですね。魚の味がジャガイモや大根に染みて本当においしかったです」
後藤さんの「道」
後藤さんは、山のもの、野のもの、里のものの様々なことに気づく温かく優しく力強い感性を持っていると感じた。そして、それは、わが地域の視点で、自分たちの暮らしを魅力あるものにする実践へと脈々と続いていた。
霧島の食資源は山から里、海へと水を通して存在するが、それは、決して人と離れてあるものではなく、心意気をもった人達が、そこにあるものを活かしながら暮らす現場にあるのではないかと思う。誠心誠意取り組める仕事、身近な資源を生かす学びの場、支えあう仲間、自然風土を大切にする行動、すべてが後藤さんの「この地を生きやすい場所に整えようとする『道』」につながっていた。
後藤さん(右)
霧島の食と器
「干し魚と野菜の煮しめ」を紅葉窯の大皿に盛る
後藤さんがお好きな料理の一つ。田植えのあとの宴会「さのぼり」では、干した飛び魚が使われた。今回は塩サバ。魚の旨みが大根やジャガイモに染みている。「ひら」と呼ばれることもある。一汁三菜の基となった本膳料理の煮物をさす「平」からきているのではないか。
今回の器は、紅葉窯の窯変虹彩の大皿。重厚でありつつ光の加減でさまざまな明るさを放つ黒に、野菜そのものの色がさらに際立つ。紅葉窯は霧島市霧島永水にある須藤勝彦・亜矢子夫妻の工房。
材料(4人分)
塩サバ 50g×4切れ、干しダイコン 50g、じゃがいも 中4個、人参 中1本、こんにゃく 1枚、揚げ 1枚、インゲン・ササゲなど 4本、干しシイタケ 4枚、うす口醤油・本みりん 各60~70㏄
作り方
- 干しシイタケは水で戻し、軸を切る。
- 干しダイコンも水で戻し、食べよい長さに切る。
- ジャガイモは半分に、人参・こんにゃく・揚げはそれぞれ8等分にする。
- なべに①②③を入れ、シイタケの戻し汁と水で材料がひたひたになるくらいにし、うす口醤油と本みりんを60㏄ずつ加え、一番上に塩サバを皮が下になるように置き、落し蓋をし、中火にかける。沸騰したらアクをとり、火を弱め30分ほど煮る。
- 味をみて、薄く感じたら、うす口醤油と本みりんを10㏄ずつ加える(塩サバの塩分で調味を加減する)。冷まして味を含ませる。
- 皿に盛り付け、塩ゆでしたインゲンやササゲを盛り合わせる。
紅葉窯
〒899-4202 鹿児島県霧島市霧島永水4086-15
https://kouyougama.web.fc2.com/
取材・文・料理
千葉しのぶ
NPO法人霧島食育研究会理事長、「植え方から食べ方まで」を実践する霧島里山自然学校、郷土料理伝承教室、「霧島・食の文化祭」を開催。鹿児島女子短期大学准教授を経て令和2年「千葉しのぶ鹿児島食文化スタジオ」を設立。管理栄養士
撮影
吉国明彦・吉国あかね(エンガワスタジオ)